






第41回 なぜ、「絆」がこんなにもてはやされるのだろう
先日の朝日新聞の「声」欄に、<「絆(きずな)」をたやすく使わないで>と、69歳の女性の投書が掲載されていた。
民主党から離党して「新党きづな」を結成した議員たちの記者会見から「絆」の重みが感じられなかったというのである。
確かに東日本大震災以降、「きずな」のオンパレードといってもいい。新党の名前を「きづな」と旧かな使いで表記したのは、時代錯誤以外の何物でもないだろう。政治家の勉強不足とセンスの無さをいみじくも現わしている。
東日本大震災の一か月後の4月11日に当時の菅直人首相が海外の主要新聞に、「復興支援のお礼」の「広告」を掲載した。
そのキャッチコピーが「絆」という漢字を大きく使い、Bonds of friendship (友情の絆)と記されている。各国から寄せられた支援に対する感謝の気持ちと復興に取り組む決意を表明したものだ。
別に間違いではないが、果たして絆が「最適」だったかどうかは、疑問が残る。
支援を受けた側が、「絆」を持ち出してはまずいのではないか。「命綱」を投げかけられた方が、「友情の絆」というと、「友達だから、支援するのが当然だろう」と、傲岸不遜な態度に見えてしまう。
この「広告」以来、絆が増殖、氾濫していった。日本漢字能力検定協会が選定する2011年の世相を代表する漢字に選ばれ、京都の清水寺の貫主が、墨痕(ぼくこん)鮮やかに毫(ごう)を揮(ふる)った。
昨年の大みそかの恒例国民的行事、NHKの「紅白歌合戦」は、その最たるもので、なぜ、「きずな」なのか、わけがわからないまま、連呼された。
歳末商戦も、「絆消費」という言葉ができるくらい、もてはやされた。冒頭に紹介した投書が掲載された翌日の朝日新聞の「記者有論」(このタイトルのセンスの無さにも、呆れるばかりだが先を急ぐ)欄で経済部の高重治香(たかしげ・はるか)記者が、一石を投じていた。
<服やアクセサリーを詰めた福袋は結婚相手を見つけるための「絆婚応援」。こたつと土鍋のセットは「家族の絆」。東北の名産は「東日本との絆」>
一向に回復しない景気の影響から、外食を減らして自宅で飲む「家飲み」なる傾向が強いそうだ。家で食事をする機会を増やすために土鍋を売るのか、機会が増えたから土鍋が売れたのか。
高橋記者は、「記事で頻繁に使った自戒を込めて、安売りされすぎだと思う」と書き、「消費を喚起するフレーズとして連呼されることに、違和感がある」と続けている。まっとうな感覚だ。
「自戒を込めて」というよりは、「自省を込めて」だろうと思うが、新聞社というところは、なかなか自分の非を認めたがらないから、デスクの筆が入ったのかもしれない。
別に私は、「絆」という字に恨みがあるわけではない。どちらかといえば、好きな字である。小学生のころは、知ったかぶりをしたかったから、「絆」よりも、あえて「紲」を使ったものだ。他にも「緤」や「縻」という「きずな」もあるけれども。
かつて笹川良一は、「世界は一家 人類は皆兄弟」という看板を作って日本中にばらまいた。今でも、古い漁村などの路地に入ると塀などに残っている。言っていることは間違いではない。だから、余計にどこか胡乱(うろん)な感じがするのだ。
武者小路実篤の「仲良き事は美しき哉」もそうだ。相田みつをの「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」とか、「しあわせは いつもじぶんの こころがきめる」 の類(たぐい)も似たようなものだ。言っている本人に文句を言っているのではない。それを利用して金を儲けたり、説教を垂れる人を信用したくないだけなのだ。
言っている内容に間違いがあるわけではない。正しいから、反対できない。だから困るのだ。
表面的には正しい言葉だけが独り歩きしていく。この世の中、物事の一面だけを見ていては生きていけないのではないか。綺麗ごとだけでは、済まないのだ。ことさら猜疑心(さいぎしん)を持てというわけではないが、物事の裏にも目を光らすことが必要なのだ。
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◎今週の箴言(しんげん)
「世の中すべてに裏がある。人間がやっていることなのだから」
2012年1月25日水曜日
連載ネッセイ=NET ESSAY
愚者の説法 賢者のぼやき
