「その2 国会南門をめざす」
すれ違う人はいなくなった。左手には国会図書館である。鉄柵の横をとぼとぼと歩いている。首にはタオル、白いポロシャツに半ズボンのおっさん。ぼくだ。目に入ってくるのは制服姿の警官だけ。百メートル間隔で立っているようだ。地下鉄「国会議事堂前」で降り、地上に上がってからというもの、何人の警官の顔を見ただろう。彼らの前を通り過ぎる。みんな幼い顔だ。目もおだやかだ。手にした警棒、腰の拳銃がぎこちない。防弾チョッキが痛々しい。といっても、個としてのそれである。集団は違う。
ひとりで歩いている。目ざす「南門」というプレートはない。衆議院通用門、とか、参議院通用門、とあるだけ。憲政記念館が見えてきた。こうして眺めると、国会は東京の高台にあることがよくわかる。
暑い。首にかけたタオルで、額から落ちてくる汗をぬぐう。見上げると青空が広がり、動こうとしない雲がある。2010年の6月16日の午後4時20分。そろそろ国会の正面だ。歩きながら思った。バカだなあ、と。南門をめざそう、ついでに国会を一周してみよう。そう思った。そんな自分がイヤになっている。なにもないのである。匂いもなければ、人とも出会うことがない。ただ警官がいるだけ。ふと思い出す。国会図書館、つまり敗戦までドイツ大使館だった。正確にいうなら、獨逸大使館であり、あのゾルゲが大使館員としてうごめいていたのだ。風景に色がついてきたが、瞬間だけだ。右におれる。ここも鉄柵と若い警官だけ。「公」だけだ。警官のそれに、国会議事堂という「公」。多数決の「公」の周りを歩いているだけ。とても抽象的で無責任な「公」である。「国民の幸福」とか「自由と民主主義の擁護」という大義名分の空間でもある。いまさらながら、そこを一周しようと思ったぼくがバカに思えてくる。『1984』のオーウェルが嫌ったのは、「公」が訴えるスローガンだった。右であれ左であれのスローガン。「公」は正義である。冗談でしょう、とつぶやく。
白い看板がある。「建築計画のお知らせ」。工事の着工は……と、ふと立ち止まると、近くにいた警官が寄ってきた。
「どうしたんですか?」
「工事、って。どこですか」
そうたずねてみた。
「部分部分ですね」
そう答えてくれた。メガネがかわいい。
「部分部分ですか」
「部分部分、まわして工事をやっているんです」
「部分部分なんですね」
「今日は、どうしてここに」
「いやあ、東京見物です。暑いので気をつけてください」
ぼくはそういって、また歩きだした。
なぜ、ここに来たのか。ある人から葉書が届いた。用件の返事のあとにこうあった。
「東京には六月十五日も行けそうにありません。会の健在を祈ります」
50年前の「60年安保」。6月15日、一人の女子学生が国会南門で殺された。そのことを忘れてはいけない。この年に生まれた「声なき声の会」は毎年、女子学生が倒れた南門で献花してきたのである。葉書の主は、いつもここに来ていた。ぼくは来たことがない。それじゃあ、今年は、ぼくが。そういうことでやってきた。単純な男である。その日、ここに足を運ぶのがやましい感じがした。一日遅れの南門である。
ちょうど読んでいたその本に、50年前の「安保」にふれたところがあった。荻窪の古本屋で買ったばかり。500円だったが高いのか安いのか。ぼくにはとても手頃な値段だった。作家・評論家の松山巌著『まぼろしのインテリア』(作品社・85年刊)である。松山さんは東京の愛宕下で生まれ育った。この高台を官庁街に下りていくとすぐのところにある町だ。松山さん、曰く、「明治以降、洋家具造りと洋服仕立屋の多い所であった」。ハイカラではなくて、「暗く埃っぽい仕事場の中で、使い古した道具箱に囲まれ単調な作業を繰り返すように見えた」。なるほど。50年前の松山さんは15歳の中学生。この一文は、83年、40歳を前に書かれていた。そして、こう記述していく。
「父親の仕事場が消えてしまったのは、東京タワーが建ち上った頃だろう。父親はもう石工という仕事に見切りをつけたらしい。仕事を休んだ職人は逆に体を傷める。かって目の前で厚さ一メートルもある御影石を軽々と割って見せた男が、疲労に押しつぶされてゴロ寝をしている。仕事は無くなり屈託だけが残っているかに見えた。
父親の仕事場がいくらかの補償金に替って柵で仕切られてしまった翌年、町は荒れた。騒然となった六十年安保も私には、町の向うを幾度か通り過ぎていったデモ隊と同じように眺めるばかりだった。子どもの頃に虎ノ門近くの路上に散乱したプラカードを集めてきては小屋に似せて組み立てて遊んだことを思い出した。あれは、メーデー事件ではなかっただろうか。また、何十万もの人々の熱気がかすかに憶えている敗戦直後の解放感を私の中に蘇らせたのかも知れない。赤旗が波のように揺れ、怒号が町の中に幾重にもこだまし、東京は燃え上がっているかに見えた。そして、怒号と熱気が消えた後に見えてきたものは、真新しくて、とりとめもなくのっぺりした東京であった」
「あとがき」に、この「亡霊たち」は、都市と人の暮らしというテーマが、どのように私の前に現れたか、どのようにしてそのテーマを自覚させられるようになったのか。その執筆の動機を語っている。
南門を目ざし歩く。松山さんの「60年安保」が、ぼくのなかで大きく広がってきた。松山さんは書き継ぐ。
「六十年安保の年といわれた昭和三十五(一九六〇)年は例年になく愚連隊狩りと暴力団狩りが強力に推し進められた」
山谷にマンモス交番が設けられた。渋谷一帯の露天商が検挙される。七月だけで、池袋、銀座、蒲田と都内だけで暴力団が二万七千人が検挙された。そして、戦後も「したたかに生き続けた」闇市マーケットが一掃された。
哲学者・鶴見俊輔さんは、当時、37歳。80歳を前にして、その時代の空気を回想している。
「私は、一九五九年一二月と、六〇年六月一五日に国会に突入した反代々木系学生の政治的プログラムの実現性を信じていなかった。しかし日本史上最大の大衆の大きな抗議行動に、わずかの数の学生がこのとき火つけ役になった。そして、この抗議行動がなかったとしたら、一九四一年一二月八日に、負けるとわかった戦争にこの国家をまきこんだ戦時閣僚の一人を、敗戦後に首相として、アメリカとの軍事協力に送りこむのを、日本人は黙認したことになり、あの戦争がなかったことになるのではないかというつよい感情をもった。あの戦争がなかったということはない。あの戦争をおこした政治指導者の責任は忘れない。そういう抗議行動が、一九三一年の満州事変以来はじめて、一九四五年以後に日本で表現されたことに感動した。この先頭に立った東大生樺美智子に対する感謝をこのときも今も私は忘れない」
『教育 再定義への試み』(岩波書店・99年刊)からである。
痛みによる定義が、観念のはじまりにあり、ながく自分の中に残る。そう書いている。時代の空気の中に教育がある。そうなんだ。「60年安保」は、あの戦争と敗戦と闇市とそれからの東京オリンピックが見事にクロスしてくるのである。点が広がっていく。重なってくる。ああでもありこうでもある。こうでもなくああでもない。そう考える自由はだれもがもっているものだ。歴史が歴史家だけのものでないよう、「公」もまた公のものではない。教育は私のものだ。南門の表示はない。国会の南側である。国会記者会館が左手に見えてきた。地下鉄で地上に出て、右手に歩いてきた。逆に歩きだせばよかった。ちょっと左に行けば南門だった。国会一周二十四分。歩いた数は約二千歩。ボケおやじの半日である。
さて、これから。東京駅八重洲口にある居酒屋の大きな赤ちょうちんが浮かんできた。加賀屋である。しめサバと日本酒、それで献酒だなあ。緊張感のない光景が浮かんでいる。東京駅まで歩こう。