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THINKING「O」

 

「その3  説教強盗に会いに行く」

 

 JRは山手線の大塚駅に降り立つ。ホームには傘を手にしている人が目立つ。七月最後の金曜日、朝からの雨も昼過ぎにはやみ、いつもの日差しに戻っている。今夜も熱帯夜だなあ。午後の四時前だ。改札口を出て南口を見ると、桃色の提灯がきれいに並んでいる。「大塚阿波踊り 8月26日」と黒く書きこまれていた。ヘー。ためいきをついていた。東京の阿波踊りといえば高円寺が有名だが、大塚も阿波踊り。中央線では小金井市も今月末、阿波踊り大会だ。三鷹も来月は阿波踊り、です。

 同行者がいる。

 ヤー! ヨー!

 そんな感じ。そのまま、都電の線路に沿って歩きだす。大塚停留所のひとつ先の向原停留所が、教の目ざす場所だ。坂道を歩く。

「三ノ輪」行きの都電がゆっくりと降りてくる。「早稲田」行きの電車が走り去っていく。人と生活を乗せて。大塚から向原までは、電車で行くと二分、歩くと四分。同行者が教えてくれる。ここに職場があるのだ。

「いい飲み屋、大塚、ありそうだね」

「いやあ、以外に高いんですよ」

 雨上がりの空は青い。春日通りを渡る。ゆっくりと見渡す。通りにはビルが立ち並んでいる。初めの路地に入っていく。アパートが並んでいる。新しいものがあれば、郵便ポストの口がガムテープで閉じられているアパートもある。住民はいるのだろうか。


 説教強盗に会いに行くことにした。


 七月に入り、偶然手にした二冊の本で、説教強盗に出会った。それも二人の小沢さんの著作である。

 はじまりは小沢信男さんの『いま、むかし東京逍遥』。収められている小さなエッセイ「東京散歩三話」の一つに「豊島区東池袋五丁目」がある。小沢さんが住んでいる場所だという(いまは違いますよ。なにしろ、1981年の作品です)。

 地下鉄丸ノ内線新大塚駅で降り、春日通りを都電の向原停留所方向に歩きだす。ビルの隙間を左に折れる。裏側は小さな家並みがひしめいている。木賃アパートが並んでいる。名所旧跡や老舗の店もない。そんな一画に住んでいる。小沢さんは綴る。

「路地は車に対して聖域であって、二六時中歩行者天国だ。人間のほかは猫と鼠とヒキ蛙ぐらいしか歩かないのだ。

そんなわけだから、私はこの町を誇りとしたい。自慢の種は、あればあるもので、今より半世紀前に天下を震撼させた説教強盗妻木松吉こそは、なにをかくそう、この町の住人なのだった」

 あの説教強盗が、そんな町に住んでいたんだ。そうですか。そう思った。それだけであった。ページを折るわけでもない。フセンに手をのばすこともなかった。小沢さんのエッセイは、このあと、自宅に戻るとそこに泥棒と出会うのであった。貧乏暮らしを狙うコソ泥、泥棒も庶民になった。そう終えていた。

その数日後である。

『文芸別冊 小沢昭一 芸能的こころ』をめくっていて驚いた。説教強盗の妻木松吉と小沢昭一さんの対談が収められていたのである。初出は『週刊ポスト』(75年 4月11日号)。小沢信男さんが、「豊島区東池袋五丁目」を書かれた6年前の対談である。

 二人の対話は楽しい。

「小沢 加太こうじ先生の『昭和大盗伝』によると、カネをとってから、『まだ時間がある。泥棒に入られない方法を、お教えする』とかいっている(笑)。

妻木 しかし、そこまでいくのがたいへんなんだ。最初のうちは、自分がコワイ。でかい声出したりもやったんです。」

 そこから説教までいくのは大変だった、という。

「妻木 強盗は単なる泥棒とちがって、コツがいる。あるだけのカネを『はい』と持ってくる人はいません。それでひきさがっちゃ、ダメなんだ。

小沢 というと、もう、ないというところまで、出させる?

妻木 そう、山芋のツタをたぐるようなものだ。

 印鑑、銀行の通帳のある所まで当てて、『まだ、あるでしょう』『まだ、あるでしょう』チョボリ、チョボリ、勘定しながらやるんです。

小沢 よくネバる山芋さんだこと(笑)。しかし、そこまでくると、一種の芸術ですな。

妻木 芸術です。自分と相手の呼吸がピッタリ合わないと、カネはとれない。間のとりかたもじつにむずかしい。

小沢 深夜のお芝居みたいなもんだ(笑)」

 対話の名人を前に説教強盗氏は堂々としている。自分の体験を語る。当然、そこにあるのはリアリティーである。対談の終わりには、こんなエピソードもあきらかにされている。説教強盗の被害者宅に結婚寸前の娘さんがいた。だが、破談になり尼さんになったという。「やられた」というウワサが立ったのである。困った世間だ。そういうこともあり、この対談でもう世間に出ることはない。「ゴキゲンヨウ」。この一言が最後だ。

 東京都内に出没したのは、大正15年から昭和4年の4年間である。カネや銀行の通帳を奪いながら、「犬を飼いなさい」「寝るときは電気を消しなさい。電気がついていると、強盗ははいりやすい」と説教をするのであった。ニセモノも現れたそうだ。逮捕されたのは、昭和5年の12月末で無期懲役の判決だった。戦後、仮釈放された。この対談の14年後、87歳で一人で亡くなった。

 そういうことで、向原に向かうことにしたのである。小沢信男さんは、こうも書いている。

「彼は向原停留所に近い小さな借家に住み、妻子を愛する律儀な左官屋として近所の受けもよかったという」

 地図を開いていた。なんと、向原から雑司ヶ谷は近いのだ。雑司ヶ谷には、説教強盗、という名をつけたあの三角寛が住んでいた家がある。三角寛といえば、説教強盗であり、サンカ小説であり、池袋は映画館「人世坐」である。10年以上前になるが、2カ月にいちど、そこに通ったことがある。ひとり娘さんであった三浦寛子さんの聞き書きをつくっていたのである。ちなみに三角寛の本名は三浦守である。聞き書きは、『父・三角寛――サンカ小説家の素顔』というタイトルで現代書館から、1998年の秋に出版された。寛子さんが亡くなり、偲ぶ会が行われた日に間に合わせたのである。会場は、チン斬そう椿山荘でおこなわれたっけ。そんなことを思い出していた。三角寛が、朝日新聞の社会部記者になったのも、大正15年だった。妻木松吉が説教強盗の道に入って行った年でもある。


 路地に立っている。モルタル造りのアパートが寄りそっている。都電向原停留所の裏の路地にいる。暑い日差しが照りつけている。ニ匹の猫がじゃれあっている。そんな裏道をとぼとぼと歩く。それだけ。春日通りに並ぶような通りに出る。小さな豆腐屋や印刷所があちらこちらで商売を営んでいる。護国寺はもうすぐそこだ。護国寺の前を通り過ぎると雑司ヶ谷である。こんなに近くに二人が住んでいたとは知らなかった。歩いていて妄想が広がっていく。二人は路地ですれ違っていた。一度や二度ではないだろう。気にしたのか。目に入ったのか。左官屋と新聞記者。そう思うだけで楽しくなってくる。

 不忍通りを雑司ヶ谷の方に折れて行く。三角寛一家が過ごしていた家は、料亭「寛(KAN)」になっている。玄関を通り抜け、奥の一室がいつもの聞き書きの場所だった。

 ――父の部屋に入ると、いつも、部屋一杯にどこかの地図を広げ、何か書いていましたね。

 そんな寛子さんの語り口調が浮かんでくる。おっとりした人だった。目鼻はくっきりしていて、三角寛そのもののような顔立ちであった。いつも、着物姿だった。

 ――いつも、ひらめきで事を運ぶ人でした。そのひらめきがあたるんですから。

 池袋「人世坐」誕生の始まりである。戦後、巣鴨プリズムの上になびく星条旗を見て、日の丸を掲げた映画館を開いたのである。「義憤だ」と三角寛自身は書き残している。その映画館でモギリをしていたんですよ。いつも、父と一緒に雑司ヶ谷を抜けて歩いて通いました。大きな目で話してくれた寛子さんが浮かんできた。

 「寛」の前を歩く。暑い。池袋まで歩くのはきつい。飲むのは飯田橋だ。地下鉄で飯田橋に出ることにした。

 
 
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