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      <title>「 その10　原子力の腹の中で」</title>
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      <pubDate>Mon, 17 Oct 2011 13:11:03 +0900</pubDate>
      <description>　本を読んでいてひきこまれている。次のようなことを考え始めている自分と出会うことがある。まれにだがある。&lt;br/&gt;　索引を作ってみたくなってきたなあ。夢中で読んでいるこの本を、索引からのぞいてみたい。そういうことだ。買ったばかりのセーターの毛糸をほどいていく。初めの手作業、ほどきながら手から閃くことがあるに違いない。そんな感じ。&lt;br/&gt;　そんな思いを抱かせているのが、『原子力の腹の中で』という本だ。小さな文字で並んでいる。サブタイトル。&lt;br/&gt;「福島第一原発事故のあとを、私たちはどう生きるか」。&lt;br/&gt;　著者は、中尾ハジメさん。&lt;br/&gt;　この名前をすぐに思い浮かべる人は、70年代前後を熱く過ごした人たちだ。W・ライヒ『性と文化の革命』の紹介者であり、ヒッピーであり、ぼくにとってはポール・グッドマンというアメリカの思想家を教えてくれた。なによりも、自立と自律について生活の中で具体的に考えることを指示してくれた。どういうふうにしてメシをたべていくのか、とか。セックスについて。コンドームを使うということについても。&lt;br/&gt;　その後、京都精華大学の教師を長く務めている。今年で65歳かしら。著者紹介がないが、たぶんそうだろう。70年初めに出会ったぼくたちは、ハジメさん、と呼んでいた。&lt;br/&gt;　ハジメさんには、『スリーマイル島』という作品がある。米国・スリーマイル島で原発事故があり、その四ヵ月後に現地を訪ね、歩き、周辺の人たちの話に耳を傾け、原発事故、というものを素人として描いたものだ。30年も前の一冊だが古びていない。原発を生み出した世界とその社会に生きているぼくたちの関係を考えているからだ。古くも新しくもない。福島第一原発があって読み直し、そう思った。原発社会の前で佇み続けているのだ。&lt;br/&gt;「二〇一一年のヒロシマ・デー、ナガサキ・デーに」というあとがきで、こう自分について語っている。&lt;br/&gt;「三月一一日から二か月がすぎても、私は、他のことはほとんど手をつけられず、テレビと新聞とパソコンにばかり向かいあっていた。はたして、大切な意味があるのかも、ないのかもわからずに、消化できるはずのない記事、写真、映像を、くりかえし、くりかえし、見ていた。愚かなことだったが、どうしても、やめることはできない」&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　ハジメさんを次のような人たちが囲む。&lt;br/&gt;　山田慶兒（科学史家）、加藤典洋（文芸評論家）、深萱真穂（ジャーナリスト）、那須耕介（法哲学者）、斎藤友宣（京都市ごみ減量推進会議職員）、片桐秀一郎（地球物理学研究者）、黒川創・司会（作家）、北沢街子（画家、編集グループSURE代表）、滝口夕美・記録（編集グループSURE）。&lt;br/&gt;　ぼくらは鯨ではなく原子力のお腹の中に住んでいるんだ。そのことを輪になって考える。話しておきたいこと。聞いてみたいことを口にする。5月22日に開かれ11時間に及んだ。その記録が一冊の本として、ぼくらの前に置かれたのである。3月11日から2ヵ月が経っている。その間に起こったこと。知らされたこと。隠されている。その理由は、どこにあるのだろう。テレビのニュースを引っ張り出し、原発開発の当事者たちの、その時々の会話を引っ張り出したり……。&lt;br/&gt;　ハジメさんは、みんなの投げるボールを受けるキャッチャーのようであり、ときにピッチャーになって現代世界（原子力の腹の中で）というボールを投げる。原子力という怪物の胃袋をとぼとぼと歩き回る。歩き動く。&lt;br/&gt;　ページをめくるにつれて、この本を索引からのぞいていみたくなった。そういうことです。団体を索引にしてみる。どういう団体が、世界の原発を操っているのか。支配し続けているのか。目で体で知覚できない放射性物質に少しでも近づいてみたい。福島を遠くから近くから見てみたい、と思った。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　アメリカ政府、具体的には「エネルギー省」（DOE）と「原子力規制委員会」（NRC）……DOEとNRCの委員長が記者会見をした。そこでは、こういうものを見せてくれるんです。2011年3月22日につくられた地図です（米エネルギー省は、3月15日には現地にスタッフを派遣し、3月22日には最初の測定結果を発表していた）。つまり、それより前に採られたデータで作ったものですが、飛行機が飛んで放射線を測定した跡です。こういうふうに、こまかく飛んで、高い線量を測定している。&lt;br/&gt;　飛行機に乗っているのはNNSA、核（原子力）安全保障局、という核機密を守る部局で、DOEの下部組織。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　米国現地時間の3月26日午後9時に発表されるためにつくられたメモがあります。一番上にOfficial Use Onlyと書いてある。これは最新のデータに基づいてつくられた。福島第一原子力発電所の評価。査定の箇条書き一覧です。元になるデータは、INPO（米国原子力発電運転協会）というところと、GEH（GE日立ニュークリア・エナジー）、EPRI（米国Electic　Power　Research　Institute）、潜水艦とか原子力空母の原子炉を管轄するNaval Reactors、そしてエネルギー省（DOE）。他にJAIF（日本原子力産業協会）、NISA（原子力安全・保安院）、TEPCO（東京電力）からの情報に基づいている、と書かれている。福島第一原発で測られたデータが、全部そこに行ってる。&lt;br/&gt;　たとえば、spent fuel pool（使用済み燃料プール）の状況。――燃料は水で覆われている。海水はまだそこに注入されていない。このプールに入っている燃料は、all over 12years old.　12年物である。そして、そこから出る熱は非常に小さい。&lt;br/&gt;　このように、肝心なことは全部書いてある。一号機から六号機までについて、こういう詳細なデータがまとまっている。&lt;br/&gt;　どうして、こういうことが分かったのか。ハジメさんは話す。&lt;br/&gt;　あるときこれが出たということを、民間のアメリカ人がキャッチした。4月5日のニューヨークタイムズに、こういう報告書があるぞと出た。これがさっそくインターネット上に流出した。&lt;br/&gt;「事故の情報が日本の専門家に来るよりも先に、アメリカの人たちに伝わったということは確かだ。NRCがこれを発表するか、これに基づいて何か言うということがないと、日本の専門家にはこの情報が来ない」&lt;br/&gt;　日本の新聞にはいまだ報じていない、とぼくは思う。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;「線量がどれくらいで退避すべきかということですが、退避するというのは、常識的に考えると、恒常的にある線量じゃなくて、何かの事故で出てきた高い線量状態を想定して、回復期の防護目安が年間一ミリシーベルトから二〇ミリシーベルト。その間で、あとは適当にそれぞれで決めなさいということになっている」&lt;br/&gt;　この限度値を決めているのが、国際放射線防護委員会（ICRP）。&lt;br/&gt;「もともとのスタートは、放射性物質を扱うような人たち、キュリー夫人のような人たちがたくさん登場してくるわけです。その人たち自身が白血病になったり、ひどい目に遭うので、そこから守らなければならない。いってみれば、ヨーロッパの国際組織としてスタート。&lt;br/&gt;　その後、X線が頻繁に使われるようになると、X線の技師たちがものすごく被曝することになる。とくに第一次大戦で、鉄砲の弾が身体のなかに入っているのを、かたっぱしから兵士をレントゲンで見たんだね。それで、レントゲン技師の間から、自分たちの被曝線量をおさえなければならないという声があがってきた。もちろん、そのときの許容線量というのは、今から考えたら、めちゃめちゃ高いんですよ。それをだんだん低くしたのが、ICRP。だから、もともとは、なかなかいい仕事をしているんだよね。&lt;br/&gt;　それが、原子力産業が広がってくると同時にあやしいことをするようになってくる。そこの一つの基準を採用したんです。日本の法律のなかに採用している基準はここです。他に国際原子力機関（IAEA）がある。これはとんでもないところだけど、そこも適当にいろんな基準を決めている」&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;「ECRR、欧州放射線リスク委員会というのがありますね。内部被曝を考慮して基準を決めている」――という参加者の発言に対して、ハジメさんは応える。&lt;br/&gt;「これは国家に認められていないが、おもしろい組織なんだよ。&lt;br/&gt;　ECの下部組織ではなくて、コミュニティなんだ。ECができた時点では、グリーン派がかなり強かった。アメリカの、いわゆる原子力まわりの科学者の影響を受けていない連中が、やはりヨーロッパにはいるんだよね。その人たちが、とりわけ放射線について、政府でいうと厚生省にあたるもの、環境省にあたる、そういう組織が必要だという声が強かった。だけど、国家がどこもそれを認めなかった。従って、ヨーロッパコミッションというのかな、ECの下部組織にはなれなかった。コミッションはコミッションで、放射線についての下部組織は持ったんです。それと180度違う人たちが集まって、ECRRをつくっちゃった。これが圧倒的に民衆の支持を得ている」&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　書き写しながら、【研究者】という項目も、という思いが強くなってきた。二人の人物について語っていく。&lt;br/&gt;「ECRRのリーダー格の一人にイギリス人のクリス・バズビーという科学者がいる。この人が「ロシア・トゥデイ」というニュースの中でインタビューされている」&lt;br/&gt;　ハジメさんを囲み、この場にいる人たちがニュース映像をみる。映像は4月25日のそれ。&lt;br/&gt;「アナウンサー　今世紀最悪のものとなった福島の事故について、あまり広くメディアで浸透していない議論ですが、福島で起こった爆発の一つが、実は水素爆発でなく、原子炉の一つでの核反応が原因だったというのがあります。それが真実だったとしたら、まさか東電はそんな重大な事故を隠蔽したりしませんよね？」&lt;br/&gt;「バズビー　私は東京電力がそれを隠蔽するということは、あり得ると思っています。原子力産業が二枚舌を使うことや、隠蔽することは、歴史的に常に続いていることです。いつでも彼らは情報を自分達の都合の良いことに変えています。私はおそらく格爆発があったと考えていますが、それは原子炉容器の方ではなく、使用済み燃料プールというタンクでの爆発だと思います。プルトニウムやMOX燃料が含まれているタンクですね。あのすごい煙を上げた爆発をビデオで見た人は、誰もがそれが水素爆発であるはずがないと思ったはずです」&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;「もう一人、アーノルド・ガンダーセンという人がいます」&lt;br/&gt;　彼はアメリカで、フェアウィンズ・アソシエイツという私的な会社をやっている。毎週、Fukushima Updates――福島はこうなっている、というビデオ・レポートをホームページで更新している。&lt;br/&gt;　ここでも、みんなで、同レポートのYou Tubeの映像を見る。&lt;br/&gt;「あるとき、NRC（原子力規制委員会＝前出）でミーティングがあり、NRCの委員が福島の現状についてスタッフからブリーフィングを受けた。そのスタッフが造ったレポートを、このガンダーセンが入手した。その報告を見てこう語った。ロデオという暴れ馬の背中に乗って、一生懸命抑えようとするけど、何回乗っても落とされる。福島はそういう状態だ」&lt;br/&gt;「彼が言うには、おそらく、アメリカ政府、あるいは、軍はもっと情報を持っている。そこまで言うんだよね」&lt;br/&gt;　この話は続いていくのだった。&lt;br/&gt;「彼のもとに日本からメールが来たんだって。五月五日に、そのメールを書いた人の名前を、彼は『ドクター・サンジ』って言っていた。綴りをみると、Sajiなんだ。佐治悦郎という人なんだよ。彼は元原子力安全委員会の事務局をやった人。その人が自分の所にメールを送ってきたよって、ちょろっと見せちゃうんだ。そのメールの中身。これは佐治さんの文章です」&lt;br/&gt;　英文を示し、日本語に訳す。&lt;br/&gt;「気象状況がわれわれに味方してくれたおかげで幸運だった。――事故の、どんどんすごいことになっていく全過程を通じて、気象状況が幸いして、よかったと」&lt;br/&gt;「佐治さんは、日本で公表されるようなところにはメールしません」と。ハジメさんの口調は強くなった、と思う。それとも、苦笑いか。&lt;br/&gt;　次のメールを紹介していく。&lt;br/&gt;「福島第一原発の三号機の、最もひどい水素爆発（ドクター佐治は水素爆発と言っているけど）と、その後の大量放出のとき――その大量放出は、ヘビーな土壌汚染を起こすに違いなかった――あのときでさえも、ラッキーだった。風が海にむかって吹いてくれていたから」「陸側に吹いていたら、ひどい土壌汚染になったほどの大量放出」&lt;br/&gt;　これをドクター佐治はばらしちゃった。あの爆発で燃料プールからどれくらい核物質がふき飛んでしまったかということは、誰も言っていない。爆発はあったということしか言っていない。&lt;br/&gt;「なんで深刻かっていうと、原子力安全委員会というのは、日本国民に向かっている組織だろう。佐治さんは、元原子力安全委員会の人だから、今の委員会についての責任はないかもしれない。でも、なんでガンダーセンには言って、俺たちにはこういう言い方をしないの？　僕は、これがショックなんだよね」&lt;br/&gt;　口ひげに手をやりながら話しているのかしら。シニカル、に。それとも、だからこそ、こういうメチャクチャな原子力の腹のなかに、ぼくたちはいるんだよなあ。自分で確認するように言ったのかしら。ぼくには、それがひとつのものとして伝わってくる。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;「原発事故を前にして、私たちが何を言うことができるのか」（第一章）までの索引である。「核という不全技術が生んだ、管理と隠蔽の社会」（第二章）、「一つの言葉によって隠される、もう一つの言葉」（第三章）がある。そこに、「原子力帝国」ということばと出会った。『スリーマイル島』を出したとき、ハジメさんが使った表現だったという。&lt;br/&gt;「そのことを言った人は、ロベルト・ユンクという人なんだ。ロベルト・ユンクが『原子力帝国』という本を書いたときの一番の中心の問題は何かというと、原子力は、結局は核兵器に結び付くような世界だから、仮にそれが原子力発電であっても、これは絶対に秘密を保持しなきゃいけない世界になるし、結局ある種の国際的な敵対関係にエスカレートするようなものになるしかない。そういう社会は、強烈な管理社会になるしかないよ、と言った」&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　今朝の朝刊を開いてみた。10月13日の朝日新聞である。見開きの社会面だ。&lt;br/&gt;「福島米　出荷できても…農家・業者　売れ行き懸念」&lt;br/&gt;　大きな見出しが飛び込んでくる。水田をみつめる農家の男性の後ろ姿の写真が大きい。隣の第二社会面には、防護服の作業員の写真がある。「福島第一原発、震災後初の防災訓練」という。「茨城のシイタケ基準超セシウム」「宮城の米ぬかも」と小さな見出し。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　版元は、京都のSURE。流通の取次は通していないので、075-761-2391（電話）075-320-1799（ファックス）に。小さな京都の出版社です。238ページの大きな大きな本です。京都から東京に、全国に飛び散っていって欲しい。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;＊編集グループ〈SURE〉HP→&lt;a href=&quot;http://www.groupsure.net/index.html&quot;&gt;http://www.groupsure.net/index.html&lt;/a&gt;</description>
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      <title>「 その９　GWが終わり、一枚のコピーを前にして」（その２）</title>
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      <pubDate>Wed, 6 Jul 2011 19:15:40 +0900</pubDate>
      <description>　ぼくたちは、わたしたちは、いまだ「アメリカ合衆国のお腹にいる」。&lt;br/&gt;　そう書いたところで、「その8　『ＧＷが終わり、一枚のコピーを前にして』」は力が尽きた。「図書新聞」2011年4月23日号の「関曠野氏が語る、東日本大震災と原発事故」のコピーを読んだ。原発反対派でありながら、「3・11」福島原発の破局を前に「痛恨の極み」と明言した論文だ。「敗北宣言」であり、ここからまた歩こう。そんな思いがビシビシと伝わってきた。その関さんの論文に沿いながら、共感する思いを書いてみた。&lt;br/&gt;「六〇年代に着工した福島原発には戦後日本そのものの刻印が押されている。経済成長至上主義の戦後日本の社会はアメリカの企業文化と最新技術を見境なく直輸入することによって成立したものだった」&lt;br/&gt;「そうなんだ。アメリカ合衆国のお腹に暮らしてきた」と思ったのでした。そして、関さんのこの個所を書き写しながら、読んでいた本を思い浮かべたのでした。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　鶴見俊輔座談６『家族とは何だろうか』（晶文社）という本だった。鶴見さんが、戦後から約50年間に渡って語り続けた対談・座談を全10巻にまとめたシリーズである。1995年に刊行した。いまでも読まれているという。6巻を手にしていたのであった。その巻に、高畠通敏さん（政治学者）と日高六郎さん（社会学者）と語りあっている座談が収められていた。それを思い浮かべたのである。&lt;br/&gt;　対談は「管理社会と家族」がテーマで1979年（この年は、年明けに「三菱銀行人質事件」がおこった。「ウォークマン」が登場し、マンガでは「うる星やつら」に「キン肉マン」、創刊された雑誌は『噂の真相』と『広告批評』）に行われている。いま振り返るなら、のっぺらぼうでだだっ広く、社会がどんどん均質化していった。そんな思いだけが流れて行く七〇年代だった。管理社会下で家族のもっている意味、家族は管理社会の対抗の場になりえるだろうか、が話されている。次の語りが関論文と響き合ったのだった。日本の経済成長の骨組みを描いてきた日本の官僚たちの姿と原発である。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;（高畠）　『油断！』（堺屋太一著）という本だけじゃなくて、このあいだＮＨＫで「食断」をやったでしょう。食料がなくなったときどうなるかという、架空ドキュメンタリードラマですけど、まさに官僚のエトスをひじょうによく描いていたと思う。危機を先取りして、深刻な顔をして、食料輸入が止まった、日本人の何千万が死ぬということで、たいへんだという。そういう啓蒙番組ですけど。&lt;br/&gt;　ぼくは官僚の習性というのは、民衆の能力についての信頼がないことにあると思うのです。それは官僚の存在意義かもしれないけど、そういう「油断」や「食断」という国家的危機をかき立てるたびに、官僚の必要性が声高に叫ばれる。このドラマでも最後は、官僚が使命感に悲愴な顔をして、混乱する民衆や政治家をとりしきって、どこをどういうふうにして日本を動かすという筋書きです。最後はそこの問題ね、やっぱり。&lt;br/&gt;　危機を究極的に打開できるのは、そういう種類の官僚じゃない。いつも計画を立てるけれども、実際上は官僚の計画どおりにことが進んだためしがないという反省がない。歴史はいつも別の次元から動いてくる。&lt;br/&gt;（日高）　「食断」「油断」というのはちょっとひどいと思うね。「油断」というような状況をつくったのは、まさに官僚でしょう。また「食断」の状況をつくったのも保守政府であり、官僚でしょう、いままでの。このごろ原子力発電の広告が新聞などに出ますね。その広告で有沢広巳さんなどが、原子力発電というのはエネルギー政策として今後ひじょうに重要だということを書いている。&lt;br/&gt;　しかし、日本の石炭産業をつぶして石油を入れるというふうに、政策転換したのはいったいだれなのか。有沢さんにはかなり大きな責任があったのではないですか。ああいうかたちで炭鉱をつぶした国はないですよ。ヨーロッパでは、フランスだってドイツだってイギリスだって、みんな炭鉱はたいせつに温存している。いざというときをやっぱり考えている。それを日本では全部水びたしにして、それで石油にしたわけでしょう。そしてそれはアメリカの政策に乗せられたようなものですよね。そして石油不足ということになると、原子力発電だという。これまたアメリカの政策に乗せられている。&lt;br/&gt;　前に自分がやったことを世間様がもうみんな忘れているとでもタカをくくっているのでなければ、いまさら原子力エネルギーの時代だなんていうことは、恥ずかしくて言えないじゃないですか。&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;　堺屋太一はもちろん通産省の官僚。有沢広巳は経済学者で、当時、日本原子力産業会議会長（1973～1988）を務めていた。ここで、日高さんが、「前に自分がやったこと」というのは、有沢氏が戦後、石炭産業の復興を唱えたことをさしている。日高六郎さんは珍しく興奮している。いつもはとても温厚な人なのだ（いまも元気で京都で暮らしています）。&lt;br/&gt;　変わらない原子力政策があり、食料を電気に置き換えてもいい。官僚の変わることのない体質もある。高畠さんの、「官僚は民衆の能力を信頼しない。混乱する政治家をとりしきり」なんて、いまとまったく変わらない仕組みだと思った。そして、「歴史はいつも別の次元から動いてくる」。「3・11」である。そんなことだった。&lt;br/&gt;　五月の風が流れていくころだった。六月の風も通り過ぎようとしている。&lt;br/&gt;　日本がアメリカの腹にいつづけているなら、ぼくらもまた官僚社会のなかに暮らし続けている。では、ぼくらは帆をあげ、どこに進んでいくか。関論文はそこに向かう。一つのビジョンを描いていく。だが、となってしまった。もう一回の寄り道。&lt;br/&gt;　先の座談の後に、興味深い対談が収められていたのであった。ぼくは本当にゲラを読んだのかしら。鶴見さんが水上勉さんと対談している。鶴見さん水上さんと並んでいる。テーマは「ふるさとの華やぎ」で1981年。水上勉のふるさとは若狭、原子力発電が集中し「原発銀座」と呼ばれていた（いまも変わらない）。鶴見さんは話し出す。&lt;br/&gt;　水上さんの文学は、『雁の寺』、『五番町夕霧楼』、『金閣炎上』、『父と子』……いずれもふるさとの方角からいまいる場所をてらすという方法が一貫としてある。それは、ふるさとの根にむかっている。そして、こう語りかける。&lt;br/&gt;「文明の先端である原子力発電についても、ふるさとの側からとらえるという同じ方法でお考えではないでしょうか。そのことは、原子力発電がいいかわるいかという次元を超えて、もっと深いところから問題をとらえる方法であると思われますので、どうぞ、まったく自由にお話していただきたいのです」&lt;br/&gt;「若狭と京都」について、水上さんは語り始める。話は原発に移る。&lt;br/&gt;　若狭に十一基も原子力発電所を置くことになった。なぜそうなったか。土地の人に聞いてみる。敦賀半島の突端の立石（たていし）に発電所が一つできた。若狭湾は狭い。立石よりであろうと舞鶴よりであろうと汚染の体系にはってしまった。万一の場合、同じ被害をかぶるのだから助成金でももらって道をよくしたほうがいい。そういう人に結局負けたのだと思う。振り返ってみると。&lt;br/&gt;「あれだけ原子力発電所が集結した過程というのは、辺境に住んで高度成長に遅れたと思っている人たちのあがきがあると思います」&lt;br/&gt;　しかし、「辺境をよそ並」にしようという発想と意見を異にする人もまたいる。水上さんはそういって、ある村について語る。小浜近くの田島という所がある。小浜に鯖や鰯をカゴに背負って山を越していく。山越えはいつも難関で途中で魚が腐ってしまう。泣きの涙で安値で売るしかない。江戸時代から続いてきた生活。ところが、ここに菩提寺の和尚さんがトンネルを掘った。二十年間、行脚して行政を動かした。原発ラッシュのとき、ここにも「原発の白羽の矢」が立った。だが断った。いまで十分です。昔にくらべるといまはトンネルがあります。&lt;br/&gt;「一人の仏教者の営為が原発を駆逐する力になったという、考えさせられる辺境のありようの一つの姿ですね」&lt;br/&gt;　若狭に生まれてしまった。奈良の二月堂のお水とり、若狭から水を送らなければ祭りはできない。京都の国際会議場での会議も新京極のにぎわいも、若狭から電気をおくらないと。ここには、都の文化づくりにものいわずに果ててゆくことが「道」なんだという気持ちがあるんじゃないか。&lt;br/&gt;「都の背中にあって、最頂点と結ばれながらそのことを主張しない。山に日が当たって輝いて見える裏は、翳った部分ですからね。その部分をいつも受け止めているのが若狭だと思う。だからせめてそこにわたしは都にない雅（みやび）をもちたい、華やぎをもちたいと思う。それを叫んで死なないことには、『生ける証（あかし）なし』みたいなもの言いにならざるをえないんですね。そこに生まれたんだから」&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;　あちらこちら。ぼくらはいろいろな道を歩いていくしかない。そう思う。&lt;br/&gt;　関論文が指し示す一つの道に向かいます。&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;「六〇年代に着工した福島原発には戦後日本そのものの刻印が押されている」&lt;br/&gt;　カメラ・アイを大きく引いていく。近代日本は初めから政治経済体制を欧米から輸入してきた。明治の貧しい日本には帝国主義国家になるための歴史的諸条件は存在しなかった。天皇制も国粋主義も国産に見せた輸入品だった（ぼくは「官僚制度」と読み変えたいのですが、それはまた別です）。こうした輸入、コピーに際して、いきすぎということ、これが近代日本の一大特徴であった。戦後の日本は工業資源がないのにＧＤＰ世界第二位の経済大国になってしまった。近代日本には国土の個性に見合った政治文化が欠けていた。&lt;br/&gt;「東日本大震災はおそらく日本の歴史の一つの分水嶺になるだろう」&lt;br/&gt;「戦前の日本帝国はヒロシマで終わり、戦後の日本はフクシマで終わった」&lt;br/&gt;　関論文はエネルギーに満ちている。反原発運動を進めてきた「一人の敗者の自覚」がそうさせているのでしょうか。こう絵を描く。&lt;br/&gt;「江戸時代との連続性を取り戻し幕末に中断した社会進化の過程を再開させること、それによって国土の個性に見合った政治文化を発展させることにある」&lt;br/&gt;　そう語る。日本のこれからの姿だ。ぼくが大きくうなずいたのは、「江戸時代との連続性」だった。なるほど、落ち着き先はここですか。そんな感じを抱いたのだった。「社会の実権はすでに十八世紀に世界に先駆してポップ・カルチャーを生み出した都市民と農民にうつりつつあった」。ここの回復であるという。「幕末に中断」。ここでは少し違うが、江戸、である。&lt;br/&gt;　いつごろかわからなくなったが、もう大きくなるのはいいではありませんか。小さく小さくね。そんなことを考えていた。考え、というよりも夢想に近い。酔ったときの戯言に近いかな。落語を浮世絵を俳句や川柳などを生み出した社会。世界に流れていった芸だ。タンポポの花のように風に乗ってフラフラである。理念が先にあるのではなく、つぶやきがあり、そこに身ぶりやさりげない動作があり、そこには人と人のつながりがある。関さんが、ここでいっている「ポップ・カルチャー」はそういうものにちがいない。そこにゆっくりと向かって行く。岡本綺堂の『半七捕物帳』や「いろはかるた」の世界でもある。&lt;br/&gt;　関さんの論文で、ぼくのはまあつぶやきだ。最近、ポケットにいれている本が駒田信二さんの『艶笑いとはかるた』（文春文庫）である。&lt;br/&gt;「他者からおしつけられる『教訓』というものは、おもしろくない。殊に、官製の『教訓』というやつは、いやである。同じ『教訓』でも、それが庶民自身の選んだものである場合は、自然に受けいれられる。いろはがるたのおもしろさは、その点にある」&lt;br/&gt;　同書で教えていただいた。「いろはかるた」は、江戸後期、子どもの遊びとして全国的になったという。そのはじまりは京都で、京都から江戸にひろがってきた。&lt;br/&gt;「い」である。「いろはの『い』」だ。&lt;br/&gt;　　一寸先は闇（京かるた）&lt;br/&gt;　　一を聞いて十を知る（尾張かるた）&lt;br/&gt;　　犬も歩けば棒にあたる（江戸かるた）&lt;br/&gt;だという。いろいろなんですね。駒田信二さんは中国研究者ですが、ストリッパー・一条さゆりの裁判では、一条さんを支える特別弁護人を務めたと思う。裸といえば、江戸の文化には欠かせない銭湯がある。『半七』にも銭湯がとてもよく出てくる。事件の現場であったり、密談の場であったり、噂話（ニュース）の交叉点であったり。&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;　最後に関論文の最後の一文を置きます。&lt;br/&gt;「原発事故の暗雲の下でも希望があるとすれば、それはこの試練をとおして日本が借り物の衣装から脱却するという希望である」&lt;br/&gt;　ひさしぶりにエネルギーに満ちた論文を読んだ。これに出会うきっかけとなった「ＧＷといせやと宮里くん前田くん」にありがとう、だ。</description>
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      <title>「 その８　GWが終わり、一枚のコピーを前にして」&#13;（気がついてのパート１）</title>
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      <pubDate>Tue, 17 May 2011 17:17:57 +0900</pubDate>
      <description>　ゴールデンウイークだった。&lt;br/&gt;　５月最初の日曜日午後２時、東京は吉祥寺「いせや」で飲んだ。その週の水曜日も「いせや」に足を運んだ。日曜日の店内がすごく混んでいた。そこで待ち合わせを２時間繰り上げ、午後の３時に早めたがすでに列ができていた。ようやく店に入ることができ、今年のゴールデンウイークは「いせや」だな。そう思った。こうしていられることがうれしい。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　日曜日は宮里くんに前田くん。早く着いたので吉祥寺駅ビルの本屋で立ち読み。月刊『ラグビーマガジン』を手にした。現役選手としてジャージを着ることを止めた選手の特集ページがあった。神戸製鋼の後藤がそこにいたのに驚く。三十歳前なのに引退ですか。この選手が好きだった。早稲田大学のときからだ。&lt;br/&gt;　スクラムハーフでパスさばきがうまい。小柄の体を跳ねるようにしてダイビングしボールをパスする。相手の陣営と味方のラインを瞬時に判断、素早い動きでＦＷとＢＫをコントロールしていくのだった。桐蔭学園から早稲田に入りレギュラーの座をすぐ取ったと思う。神戸製鋼に入社し新人王に選ばれたと思う。スピードだけが売りのジャパンラグビーに、この後藤翔太は必要不可欠と思われた。ケガに見舞われた。しかも首のケガである。ケガには勝てなかったんですね。今後は、日本のラグビーに少しでも貢献していきたい。そう話していた。自分の体験を伝えていきたい、と。経験という楕円のボールのパスですね。うれしいねえ。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　携帯電話が鳴った。宮里くんだ。混んでいるので２階にいますよ。そう言う。二階座敷席の隅に二人は坐っていた。ぼくよりふた回りも年下の編集者である。こんなボケおやじとつきあってくれる、数少ない若い人だ。口にしたことはないが、ふと、そう思うのだった。一階も満員、二階の広い座敷席も人であふれている。二階で飲むのは初めてだね。で、ビールで乾杯。いやいや、みんな元気でなにより。エラそうに、そう話していた。ビールが焼酎のお湯割りになっていた。なんやかんやこんなあんな、と話していた。&lt;br/&gt;　こんなあんな、は水曜日も同じだった。元四谷ラウンドの社長・田中さんにそのスタッフだった女性だ。一階奥のテーブルも満席。若いカップルに家族連れ。一目であやしい雰囲気を漂わせているカップルもいる。テーブルの向こうが変わっても酒は同じ。ビールからお湯割りに。話題もいきつくところは同じだった。福島原発である。「いせや」のゴールデンウイーク。話した内容はすっかり忘れてしまったが福島原発について、ということだけは覚えている。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　山椒魚が気になっていた。&lt;br/&gt;「3・11」、とくに福島原発事故（事故というと、原発の破局という圧倒的な現実感が薄れてしまうのだが）と日々つき合うことになってしまった。そんなある日だった。井伏鱒二の『山椒魚』がヒョイと浮かんできたのである。野川公園のベンチで一人、どこまでも青い空を雲を見上げているときだった。デブになり岩屋から出ることができなくなった、あの山椒魚が気になった。浮かんできては消えなくなった。ぼくらはあの山椒魚状態になっているのかしら。そんな妄想に襲われたのである。井伏の山椒魚が広がってくる。ゆっくりとゆったりと川とたわむれ、水をたのしむことができなった。そんな山椒魚である。デブの山椒魚に重なってきた。&lt;br/&gt;『山椒魚』の再読を決めた。ゴールデンウイークも終わる週末だった。&lt;br/&gt;「山椒魚は悲しんだ。」&lt;br/&gt;　書き出しだった。井伏さんはここから歩きだしている。読み進む。短編だけにすぐに終わった。いつ以来かしら。ああそうそう、あの人とデートしていたから二十代が終わるころだった。井伏さんの山椒魚である。「岩屋の囚人」であることを拒否しようとしていたんだね。そのことは忘れていた。デブの山椒魚だけが残っていた。山椒魚は、指をくわえているだけではなかった。棲みやの岩屋から外へ出ようと試みる。頭が出口につかえる。頭はコルク（原作はゴロップだ）の栓状態、つまり出入り口を塞ぐコルクになっていた。&lt;br/&gt;「何たる失策であることか！」&lt;br/&gt;　そうつぶやくがめげないのだ。&lt;br/&gt;「くったくしたり物思いに耽ったりするやつは、莫迦（ばか）だよ。」&lt;br/&gt;　力をふりしぼって出口に突進する。何度も試みる。徒労の繰り返し。&lt;br/&gt;そこに一匹の蛙がまぎれこんできて、奇妙な同居生活が始まった。そして口論が交わされる。&lt;br/&gt;「お前こそ頭がつかえて、そこから出て行けないだろう？」&lt;br/&gt;「お前だって、そこから出ては来れまい。」&lt;br/&gt;「それならば、お前から出て行ってみろ。」&lt;br/&gt;「お前こそ、そこから降りて来い。」&lt;br/&gt;　ラストシーンだ。いまのぼくらと似ている。デブになってしまった山椒魚だ。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　月曜日だった。大型連休も終わったという（ぼくの日々はいつもこれだから始まりも終わりもない。いいのかしら）。宮里くんから手紙が届く。コピーだった。「図書新聞」2011年4月23日号。「関曠野氏が語る、東日本大震災と原発事故」。白抜きの文字が見える。なるほど、そういうことか。「いせや」での断片を思い出した。福島、である。宮里くんが話した。図書新聞、読みました。関曠野の論文、おもしろいですよ。関曠野？　うーん。思い出した。ソ連が崩壊したときに一度お会いしたことがある。共同通信にいたと思う。人口問題を軸に世界を語った。ソ連崩壊を人口問題中心に話したんじゃないかしら。そんなことを言う人は意外だった。ぼくはそう応えていたと思う。コピーを読みだす。&lt;br/&gt;　読み初めてすぐに思った。ぼくは相変わらずの勉強不足だなあ。関さんの名前も「図書新聞」もすれ違う場所にいたんだなあ、ということだ。編集者もジャーナリストであるなら、広い視野に立つのは当然のこと。すっかり怠惰になってしまった。関さんの論文に驚いていた。書き出しから立ち止まってしまったのです。新鮮な驚きでした。&lt;br/&gt;「反原発派の一人として福島原発の破局（！　ぼくがいれました）を許してしまったことは痛恨の極みと私は言うしかない」&lt;br/&gt;　福島原発についてこんな言葉を目にするのは初めてだった。新聞にテレビ、数少ないブログとツイッターがぼくの情報の窓口だ。デブのぼく。これまで、「原発賛成対原発反対」というイデオロギーの対立が原発論議を不毛のものにした。そんなセリフばかりが目立っていた。「右翼と左翼」という区分わけのようだった。そこから自由な言葉に出会うことがなかった。関さんは違うのだった。自分個人の歩みとその責任を口にしている。&lt;br/&gt;「反原発派の一人として」&lt;br/&gt;　この一言は、この国を超え世界の多くの人たちに響いていくと思う。そういう問題なのだ。「痛恨の極み」。個人の感慨だけで福島原発を語らないぞ、という気迫がここにあると思った。関さんの話は実に具体的だ。21世紀の始まりに起こり、現在進行中の大惨事を前に冷静なのだった。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;○原発事故はフィジカルな打撃である以上に、耐えがたいメンタルな出来事である。事故でわかったのは、人びとの不安とストレスが異常に高まっている。この事実を無視して、今後は原発を論じることはできない。&lt;br/&gt;○再生可能エネルギー（風力、太陽光、地熱）の役割は補助的なものにとどまっているが、この再生エネルギーの発電能力に合わせて社会構造を変えていけばいい。大都市の人口を国土に均等させ、集中と集積から分散と多様化への転換である。イリッチの「エネルギーと公正」は今こそ読み返すに値する。enerugy and equity　でネットを検索すると全文をよむことができる、とも書きこんでいる。&lt;br/&gt;○利子と負債の銀行マネーを公益事業として発行し、それを管理される公共通貨に置き換えて、ベーシック・インカムによって清算と消費をマクロで均衡させる（クリフォード・ダグラスの社会信用論）。今、東北が必要としているのは、被災者に対する月八万円程度の一律無差別なベーシック・インカムの支給である。被災者を支え、地域経済を速やかに再生させる。銀行マネーの使い方法である。&lt;br/&gt;　そして、こう話しかけてくる。&lt;br/&gt;「東北の被災地の人々と東京の原子力エリートとの対照」&lt;br/&gt;　強靭で気品のある東北の民衆。グロテスクな東電の幹部に原子力ムラと政府高官。この対照の意味するところは、地震銀座の日本がなぜ世界３位の原発大国なのか。この問題にいきつく、という。細部に神は宿るんだなあ。改めてそう感じた。&lt;br/&gt;　事故原発はアメリカのＧＥ社の製品である。地震を軽視した設計だという。この製品をどうして福島県でそのまま稼働してきたのだろう。これは技術評価の問題ではなく、アメリカの企業文化に対する盲信や崇拝の問題であり、&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;「六〇年代に着工した福島原発には戦後日本そのものの刻印が押されている。経済成長至上主義の戦後日本の社会はアメリカの企業文化と最新技術を見境なく直輸入することによって成立したものだった」&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　アメリカ合衆国のお腹にい続けている。戦後からいまだに。そういうことだと思った。そして、書き写しながら、ちょうどいま手にしている本を思い浮かべた。鶴見俊輔座談６の『家族とは何だろうか』。晶文社にお世話になっていたとき、編集に関わったシリーズである（1996年刊）。今年から自分が携わった本をゆっくりと読み返している。いや、そうではなかった。本、として読むことにしたのだった。この『家族』に、鶴見さんが高畠通敏さん（政治学者）と日高六郎さん（社会学者）と語りあっている原稿も収めていた。1979年の座談で、テーマは「管理社会と家族」だった。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;と、ここまできてしまい、あまりに長すぎることを知りました。ここまで読んでくれる人がいたとして感謝します。そして、この項続く、です。宮里くんの口調ですが、関曠野論文おもしろいですよ、です。早めに続きを、と言い聞かせています。すいません。&lt;br/&gt;</description>
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      <title>「 その７　『タクシーで、この病院に行ってください』」 </title>
      <link>http://www.sayusha.com/sayusha/RoppeiNakagawaBlog/entori/2011/3/2_sonotakushidekono_bing_yuanni_xingttekudasai.html</link>
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      <pubDate>Wed, 2 Mar 2011 03:25:16 +0900</pubDate>
      <description>　入院してしまった。１月の終わりから２月の初め。10日間だが、病院はやはり病院だと痛感する。病室はガン患者と高齢者であふれていた。３年前の初冬に入院してからの病院生活だが、ガン患者と高齢者に囲まれたのは初めてだ。いやーすごいね、病院は。そう思った。&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;　腹が張り出した。昼過ぎから腹痛が始まる。少し歩けば痛みも治まるだろう。買い物がてら１時間ほど歩くことにした。痛みはきつくなるばかり。不吉な予感に襲われる。&lt;br/&gt;　アレだな、と思った。腸閉そく。２回もこれに苦しんだ経験がある。痛みは、苦しさは記憶にくっきりと刻み込まれている。体は忘れない、ですね。&lt;br/&gt;　初めは13年前の正月だった。４日に入院、そのままＩＣＵ病室に運ばれた。深夜の病室のベッドには、それぞれの患者の脈拍を測る器具だけが明るかった。そこだけが灯がともっている。トイレに駆け込んだ。胃から未消化のものがトイレの壁一面に広がった。明け方だった。これに救われた。手術はしないですんだ。２度目のそれ。手術もしていないのに、腸閉そくになるなんて珍しいケースです。医者も困惑を隠さなかった。下剤がすぐに効いて、入院することなく家に帰ることができた。そんなことが浮かんできた。&lt;br/&gt;　夕方、自転車で病院にかけつけた。&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;　緊急患者用のベッドに横になっている。右手手くびのすぐ上には点滴用の針が刺さっている。「水分補給です」。若い男の医者がそう話し、女の看護師が針を入れた。それから２時間である。採血はすみレントゲン撮影も終え、「腸閉そく」と診断された。予想通りだった。といっても何もいいことはない。胃が左右から圧迫され、上下に激しく動きだした。痛みの間隔も早くなってくる。いままでなかったことだ。やばいなあ。&lt;br/&gt;　病室の時計は11時を回っている。病院に駆け込んでから６時間だ。東京は多摩地区にある総合病院である。若い医者が顔を出し話しかけてくる。&lt;br/&gt;「腸閉そくの原因がわからないんですね。ＣＴをとりましょう」&lt;br/&gt;　造影剤を体に流し込み、患部を輪切り状態にするレントゲンのようなもの。もう何回も経験すみだ。ガンについての検査にいいという。肝臓ガン検査で、年に３回ほどＣＴだった。この造影剤注射器は大きい。そこから造影剤が体を流れていく。すぐに尻が熱くなるのだ。最近は、この熱さが心地いい。快感に近い熱さ。もちろん、そんなこと口にしたことはない。&lt;br/&gt;「造影剤で副作用が出たことがありますか」「ノー」&lt;br/&gt;「今まで腎臓病と診断されたことがありますか」「ノー」&lt;br/&gt;　同意書に答えサインする。&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;「どうして、わたし、ここにいるの」&lt;br/&gt;「おまえが背中が痛いというので、ここにきたじゃないか」&lt;br/&gt;「おぼえていないわ。早く帰りたい」&lt;br/&gt;　向かいのベッドの会話が聞こえてくる。老夫婦である。夫がしきりになだめている。&lt;br/&gt;「検査がすめばすぐ家に帰ることができるよ」&lt;br/&gt;「検査、こわい。早く家に帰りたい」&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;　ＣＴ検査がすみ、ベッドに戻る。そんな会話が続いている。緊急患者用ベッドは埋まっている。あちらからこちらからささやくような会話が押し掛けてくる。&lt;br/&gt;　医者がレントゲンを持って横に立っている。「小腸に異常があります」。そしていう。&lt;br/&gt;「病院にベッドがあいていませんので、他の病院を紹介します。これからタクシーで行ってください、タクシーで」&lt;br/&gt;「タクシーって、どういうことですか」ぼくは自分の耳を疑った。&lt;br/&gt;「……」&lt;br/&gt;「これから紹介状を書きます」そう言い残して、医療スタッフ用の部屋に戻って行った。看護師にたずねる。&lt;br/&gt;「タクシーで行くんですか」&lt;br/&gt;「最近は、近い病院を紹介するときはタクシーなんです」&lt;br/&gt;　いつもの出来ごとを話しているような、とても滑らかで慣れた口調が返ってきたのである。「タクシーで深夜の病院のはしごですか」。ぼくはそういっていた。「夜の病院はしご」。&lt;br/&gt;　腹は痛いし腹は立つし。タクシーを拾うしかない。&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;　中央線の反対側の病院。レントゲン撮影に採血、検診である。若い女医だった。幼い子どもを連れた若い夫婦３組とすれ違う。インフルエンザに違いない。旦那が子どもを抱きかかえていた。ぼくの診察は一時間、ベッドに横になったのは午前３時だった。看護師の控え部屋の前で患者はぼく一人。もう眠りたい。&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;　この日から５日間、「禁食」という文字は消えなかった。水もダメ。ひたすら点滴である。あとは、朝に昼に夜、看護師はぼくのお腹に聴診器をあてる。そのたびにたずねてくる。&lt;br/&gt;「ガスは出ましたか」&lt;br/&gt;「痛みはどうですか」&lt;br/&gt;　水分補給の点滴に、ときどき、鎮痛剤の点滴が加えられる。ベッドから降りるのは、トイレとレントゲン撮影のための移動のときだけ。あとは仰向け。天井を見上げてボーっである。本を手にすることもテレビも見ないことにした。そういうことはなし。そう思った。&lt;br/&gt;　向かいのベッドは、前立腺のガンだという。隣のベッドは膀胱ガンだという。斜めのベッド、こちらも前立腺のガンで、今回の入院で人工の膀胱にしたと言う。病院のこのフロアは、消化器外科と泌尿器科だ。四人部屋である。患者の病名も名前を覚えるのは早い。なにしろ、１日４回の検診。体温計に血圧、そして食事の状態にトイレの回数など、そのたびに、患者の名前が呼ばれる。それに、午後になれば見舞い家族との会話が聞こえてくる。&lt;br/&gt;　天井を見上げ、点滴のビニール袋からゆっくりと落ちてくる水滴を見ている（退院するまで、500mlの点滴注射は21袋）。病室での小さな声だけが流れてくる。&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;「仙台、いまどうなっているのでしょうかね」&lt;br/&gt;「うん、そうだねえ」&lt;br/&gt;「なになにちゃん（孫の名前のようだ）の音楽発表会、これじゃあ、あなた、見にいけないね」&lt;br/&gt;　向かいのベッドからだ。仙台の家をそのままにして、息子さんの家に来ている。息子夫婦が共稼ぎ、その一人娘で孫の面倒をみるということで東京にきた。東京で暮らし、もう５年になる。&lt;br/&gt;　朝食に重湯が出たぼくの入院６日目、この患者さんは退院していった。あとは時々、通院だけですみそうです。笑みを残していった。&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;　10月から入院しているという。膀胱ガン手術の隣の患者だ。術後がよくない。夕方の５時になると、奥さんが見舞いにやってくる。息子が２人。四〇をすぎたばかり。&lt;br/&gt;「まだまだ、これから働かないだめだね」&lt;br/&gt;「そうだね、ウン」&lt;br/&gt;　夫婦の会話も耳になじんでくる。この患者さんだけが四〇代。&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;　フロアには15室あり、そのうち4部屋が個室。満室状態は続く。ラッキーでしたね、中川さん。ちょうどここ空いていたんですよ。看護師が教えてくれた。&lt;br/&gt;「患者の平均年齢は？」&lt;br/&gt;「すごいですよ」の一言だけ。&lt;br/&gt;　トイレにいくときにすれ違う。ほとんど、いや、全員がぼくより年上に見える。実際、そのようだ。６日目の夕食は三分かゆに。梅干しにホットレモン、薄い野菜スープ。消灯は9時30分。元気がでてくると、眠れなくなってくるのだ。頭も動き出す。&lt;br/&gt;「外を歩きたいなあ。冬空の下を思い切り歩きたいなあ」&lt;br/&gt;　インドに行かなくても考える。考えることしかない。六〇歳まで生きている。そんなことは考えたことはなかった。昨年六〇歳になったとき不思議な感覚に襲われた。よく生きてきましたね、と自分に声をかけた。体から何かが抜けて行くようだった。定年もなければ、年金も雀の涙である。生きていく限り働かないといけないなあ。こうも思った。二〇歳の頃、三〇歳代の頃、四〇歳になっても、自分の六〇歳について、それからのことに思いをはせたことはなかった。まあ、その日暮らし。その頃に、六〇歳になる自分と重ねて合わせて日々を営んでいたら、どうでしたか。ふー、変わらないだろうね。その日暮らし、だった。でもさ、自分も歳をとっていく。そう考えていたら、すこしは周りにやさしくなっていたかしら。それはないなあー。&lt;br/&gt;　そんな日の午後だった。午前中の診察が終わり、昼飯がすむと、実にノンビリ感がただよう。いつもと違う日々という緊張感が途切れる。間の向けた解放感に襲われる。そうなんだ。眠くなるのだった。&lt;br/&gt;　退院する前日。トイレから戻ると、薄いピンクのパジャマを着たおばあさんがベッドに横になって寝ているのであった。白髪に少し額が隠れている。悪くない寝顔だが、ここはぼくが横になるところだ。病室の他の患者は気がついていない。このまま、彼女の横に滑り込んでいくわけにはいかない。白髪のおばあさん。口を少し開けている。部分入れ歯を外している。どこで見ただろう。隣の病室じゃあないや。このままで寝ていてもらおう。それがいいや。看護師を呼ぶのを止め、ぼくは待合室に向かった。この歳になっても、病院でも、予期できないことに囲まれている。急に腹痛を感じたように。タクシーで行くようにと医者にいわれたように。&lt;br/&gt;　井伏鱒二『駅前旅館』か『集金旅行』が読みたくなった。登場人物一人一人、それぞれの顔をもっている。&lt;br/&gt;</description>
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      <title>「その６　　多摩霊園の『1944年11月7日』」</title>
      <link>http://www.sayusha.com/sayusha/RoppeiNakagawaBlog/entori/2010/12/19_sono6_duo_mo_ling_yuanno_1944nian11yue7ri.html</link>
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      <pubDate>Sun, 19 Dec 2010 11:13:30 +0900</pubDate>
      <description>　寒さも夜の冷え込みも厳しくなってきた。そんな12月に入った第１土曜日はとても暖かかった。その夜、ぼくは一ツ橋・日本教育会館に向かっていた。雑誌『彷書月刊』の会が用意されていたのである。古書の専門誌に縁のある人たちが集う。同誌は今年10月号で休刊を迎えていた。この休刊を祝ってもいいし、惜しんでもいい、淋しがってもいい。そういう謝恩会だという。もちろん、ぼくらが同編集部とその発行にゆかりのある人たちに謝恩するのだ。休刊号の「猿楽町だより」（編集後記）で、編集・発行人の田村治芳さんは、「二十五年、九千の日と夜。『彷書月刊』休刊三百号を出させていただき、」と書き始めている。&lt;br/&gt;　始まりの30分前に会場に着いた。田村さんはもちろん、古本屋の「石神井書林」や「月の輪書林」「港や書店」たちが受付などの準備をしていた。会はとても穏やかに進んでいく。和やかな雰囲気だ。『彷書月刊』の足跡が語られる。同誌から生まれた書き手の名前が並ぶ。始めた時は３年もてば……。回想もあれば、その財産ともいうべきこれからの伝承も語られる。オレ様は、と口にするような人はいなかった。自分の自慢話に終始する人の挨拶もなかった。&lt;br/&gt;　休刊号（10月号）と前号（９号）は、『彷書月刊』総目次である。ぼくは書いていたんだ。総目次を追いながら思い出す。ぼくは、３回書いていた。そう、あのことを書いていた。最初の原稿は「缶ビールを持って多摩霊園に」、1997年の１月号だった。「缶ビール」だなんて、今とまったく変わらない、昔のまんまにきているのだ。内容も浮かんでくるのである。&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;　――初冬。ぼくは自転車のペダルに力を込める。多摩霊園に向かう。途中、野川公園を通り抜ける。枯れ葉が音を立てる。カサカサカサカサ。……。&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;　多摩霊園には、時々、行っていた。その後も、よくぶらぶらしてきた。ぼくが憧れるある日本人の墓が、そこにあるのだ。謝恩会の次の夜、日曜日の夜に１冊の本を手にした。『尾崎秀実伝』である。著者は風間道太郎、法政大学出版会が版元で、「1968年10月25日　初版第1刷発行　　1976年2月17日　新装補訂版第1刷発行」と奥付にある。555ページもある。定価は2000円。タイトルと著者名は覚えていたが、それ以外はすっかり忘れてしまっていた。&lt;br/&gt;　本を読み終えた朝のことは鮮明に憶えている。読み終えたのは明け方だった。外はまだ暗い。尾崎秀実の墓が、住んでいる家の近くにあることを知ったのである。そこに行こうと思った。そう思ったのである。外はまだ暗闇だ。いくらなんでもひとりで霊園をぶらつく度胸は持ち合わせていない。それりゃあ怖い。陽がでるのを待つことにした。そして、ぼくは多摩霊園に向かった。&lt;br/&gt;　こういう人がいたんだ。読み進むにつれ胸が熱くなり、なかなか眠りにつくことが出来なかった。1976年の初夏のこと。この朝の東の空の橙色と霊園は、ぼくの体にしっかりとしみこんでいる。ジャーナリストであり、中国研究者であり、その全身を戦争の拡大阻止にかけた。世にいう「ゾルゲ事件」で逮捕され刑死である。その夜以来である。&lt;br/&gt;　本を開いた。白いカバーはすでに黄く変色していた。オビはない。あちこちに染みがついていた。口絵の初めは、尾崎秀実の肖像写真である。次ページは、母と一緒の幼年時代の写真や台北第一中学時代の記念写真が並んでいる。めくると、右には第一高等学校受験用の写真があり、左ページは妻と一人娘との家族写真である。その下に墓の写真がそえられている。写真説明は、「墓（多摩霊園　10区甲13側）」。&lt;br/&gt;　そうなんだ。細長い墓がひとつ、ぽつねんとあるだけの墓地だった。いまでは、目に浮かべることは可能だ。しかし、76年の夏はそうではなかった。あの大きな霊園の10区を目ざしたのである。歩き回った。迷子状態である。なんとか、10区のその墓と出会った。その口絵最後のページは、ゾルゲにスメドレーの二人の顔写真だ。&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;　ぼくは自転車のペダルに力をこめる。歳なんだね。スイスイといかない。野川公園の中を通り抜け、アメリカンスクールの横をいく。歓声が聞こえてくる。サッカーを楽しむ生徒たちのものだ。多摩駅（以前は確か「多摩霊園前駅」だったはずだ）の横のコンビニエンスでサンドイッチと缶ビール二つ買う。12時に家を出たが昼飯はまだだ。&lt;br/&gt;　正門を通り抜け、真っ正面にある塔を目ざした。塔の下が石段になっていて、その石段に腰をおろしてビールを飲む。多摩霊園ぶらぶらの、ぼくのいつもの行動だった。ここから、右手に山本五十六の大きな墓がすぐそこにある。その隣は東郷平八郎だ。並んで眠っている。ぼくはハムカツサンドをほおばり、ビールを飲む。人の姿は見えない。見上げると雲のない冬の空だ。烏もいない。犬もいない。ここまですれ違う人もいなかった。ゆっくりゆっくり昼飯を楽しむ。&lt;br/&gt;　正面の方から婦人が二人、こちらに向かって歩いてくる。一人の女性は箒を手にしている。私服姿だ。霊園、というと、ぼくはある妄想に襲われるのだった。小高い所にある小さな霊園。そこに行くには、少し急な石段を登るのだ。ぼくは歩き出している。中段あたりだ。見上げると喪服の着ものに身を包んだ若い女性が降りてくるのだ。一人静かに、悲しみを押し包むように降りてくる。すれ違う。そんな妄想である。遠い昔から抱いていた。だが、一度もない。バカですね。ビールを流し込む。後ろの方から声がしてきた。三人のおじさんたちが現れた。リックサックを背負っている。「ほら、山本五十六だよ」「ああー、東郷平八郎の墓だ」「坂の上の雲、だよ」。携帯電話で写真を撮り始めている。そういえば、先日、新聞記事で読んだよなあ。多摩霊園めぐりがブームだ、という。&lt;br/&gt;　10区の墓地に急ぐことにした。自転車を走らす。10区はしっかりと頭に入っている。&lt;br/&gt;　『尾崎秀実伝』口絵の墓の写真は、「尾崎秀實之墓」だった。ぼくの前にスーっと立っている墓は、新しく「尾崎秀實　英子之墓」とある。自転車のかごの中にいれてきた本を開いて気がついた。あの夏の朝はどうだっただろう。思い出せない。「一九四四年十一月七日」。と、刻み込まれている。墓の前の黄色い菊が目にスーっと入ってくる。南天の下の葉が赤く色づいている。人の声も烏の鳴き声も聞こえてこない。冬の日差しも暖かい。&lt;br/&gt;　ぼくは気分がザワザワしてくるのであった。いつものように、ここにくると落ち着かなくなる。尾崎秀実はジャーナリストであったのか。中国研究者であったのか。反戦主義者であったのか。ここに立つと考えるのだ。あの理髪店のシンボルのように、ぐるぐるぐるぐる回るだけの問い。日本政府が抱える高度の情報を分析し、それをゾルゲに渡す。それは、ゾルゲからスターリンに。いまでは、もう常識であるが、日ソ間の戦争を回避させたのである。そして検挙された。「国際諜報団」だという。&lt;br/&gt;　今日は本を開いてみた。最後の章は、「二六　一九四四年十一月七日」。著者は書き記るしている。&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;「一九四四年十一七日の東京は、三年まえに尾崎が自宅から警察へ連行されたあの日のように、朝から明るい日の光が地上にさしていた。&lt;br/&gt;　尾崎は朝食がすむと、筆記室へ行かせてもらった。その狭い一室にすわって、かれはいつものように妻へのはがきを書いた。文面のおわりに、&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;――近来警報頗る頻々、ますます元気で内外の情報に敢然対処することを祈つてやみません。&lt;br/&gt;　寒さも段々加はつて来ます。今年は新しい薪炭も一層不足で寒いことでせう。僕も勇を鼓して更に寒気と闘ふつもりでゐます。&lt;br/&gt;　　昭和十九年十一月七日朝&lt;br/&gt;英子殿」&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;　同じ日に処刑されたリヒャルト＝ゾルゲも、ここに眠っている。この日、11月７日はロシア革命記念日。尾崎秀実は43歳。&lt;br/&gt;　最後の章を読み進んだ。尾崎は、墓地を購入することを禁じていた。所持金が乏しいというのが、その理由だった。残される家族を思ってのことだった。三回忌がめぐってくる年、妻の英子は多摩霊園に墓地を購入する。遺骨をそこに収め、尾崎が好きだった梅の木を一本植えたという。著者は、尾崎の一高時代からの友人であったことも改めて思い出した。この伝記は、ライフワークだったという。&lt;br/&gt;　墓地の梅の木に触れてみた。缶ビール二本では足りなかったなあ。ぼくはつぶやいて、ゾルゲの墓地に向かことにした。空はまだまだ高い。静寂につつまれている。&lt;br/&gt;</description>
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